怒涛の英語力

 のコピーで有名なみすず学苑の電車内広告が乗ってる電車に貼られていることに最近になって気付く。今回は松尾芭蕉などの俳人、桃太郎、金太郎などの昔話のヒーローなど相変わらず英語力とは関係ない面々が並んでいて例年通りふざけたものだった。
 今となっては「この広告はふざけてます」というメッセージが前面に発せられているみすず学苑の広告だが、昔の奴は中国の武将なんかとヤマトタケルが一列に並んで「怒涛の英語」力のコピーがつけられているだけという、見る者に何コレという不安だけを感じさせるものになっていた。福澤徹三「怖い話」の怖い広告の章では「製作意図がわからない」怖い広告がいくつか紹介されていたが、この広告もその部類の広告だと思う。見る方も製作する方も慣れてしまったから異様さはだいぶ薄れてしまったけど。

あと昨日の日記後半の続き。

Q4 なぜ今、ホラーではなく怪談なのか?
 ホラーが売れなくなってきたから怪談というジャンルをでっち上げるようになった……ということだろうか。SFとしてパッケージングされるべき作品が奇想とか呼ばれて売られたような感じで。いや、さすがにそういうことを言ってるのではないだろう。なぜホラーでは駄目なのか。ホラーは人気が無いのか。ホラ大を受賞した作家だってホラーが苦手な人でも読める作品を目指しました、なんて言う時代だしホラーと聞くと身構える人も多い。ホラー=気持悪い、グロいというイメージが強いのは確かなようだ。では怪談はどうか。平山夢明の存在を無視すると怪談は怖い、不思議というイメージはあっても気持ち悪いグロいというイメージは少ないと思う。またホラーに比べると特異な設定のものは少なく、その舞台は我々の生きているこの現実世界と地続きである。つまり怪談はホラーに比べて読者の間口が広い、ということが言えると思う。
 それになんだかんだいっても怖い話や不思議な話に人は惹かれるものだし、虚構であれ実話と称するものであれ、怪談というものは人々の人生、体験とどこかしら通じるものがある。怪談の描く世界は我々の暮らしている世界とどこか重なっていて、怪異がこちら側にふとした拍子に侵食してくる、そんな手触りがなければいけないと思う。面白くてもどこか絵空事にしか感じられないホラーに比べ、怪談はどこか我々の人生と地続きになっている故に、より多くの人々に楽しまれる可能性があるのではないだろうか。