折神の折り紙

 そういえば昨日はゴーオンジャーが最終回でしたが、エピローグで黒の人と緑の人が相棒で使ってるセットにいて暇か?の課長とか覗いてる二人組とかもが別人だけどちゃんといて笑った。覗いてる二人組のうち小さい方の人はゴーオンジャーにゲストで出てましたけど。しかしラストのオチがキバと被ってるのはなんだかなあ。
 来週からの侍戦隊シンケンジャーはネーミングこそ戦隊物もここまで来たか……、と言わざるを得ない馬鹿ネーミングですが脚本小林靖子だしけっこう面白くなるんじゃないかと期待。今年はライダーが凄いから霞んじゃうかもしれないけど。

 それはさておき唐突ですが、突発的に怪談小説について色々考えてみる企画第一弾。二弾はたぶんやりませんけど。微妙に昨日の日記後半の続きみたいな感じで。
 怪談小説において重要な事は何かと考えてみると、それは『切り口』と『段取り』ではないか、と思う。
 切り口というのは、要約すれば『どんな風に書くか』ということ。これだけだと要約しすぎだけど、物語を紡ぐ視点をどうするかとか、何を書いて何を書かないかの取捨選択だとか、物語を書く上での方針とその運用とでもとりあえず定義しておきます。
で、段取りというのは起承転結という構造を用いて、物語を盛り上げるのに必要な情報を段階的に提示していくことだと考えてください。
 掌編というスタイルは『切り口』で勝負するには向いている、というか実質的には切り口だけで勝負せざるを得ないスタイルだと思います。もっとも切り口が大事といっても、それが単なる思い付きレベルでは駄目で第6回ビーケーワン怪談大賞での講評における苦言も、実のところはジャンル違いとかの表面的な問題よりも怪談としての練り込み不足に対して向けられていたような気がします。一方の段取りに関しては八百字ならなんとか取り入れられるもののそれ以下のもの、五百字になると起承転結という構造はたぶん無理で、八百字であっても下手にやると物語の骨組みしか残せないでしょう。
 一方、長篇小説であれば段取りの部分に関しては色々なことが文字数を気にすることなく出来るけれど、色々なことが出来る分、切り口に関してはどうしてもぼやけてしまうと思います。また怪異というものはあんまり長々と出てくると、怪しさが失われてしまうようなところがあると思うので、そういったところからも怪談と長篇というのは相性がよくないんじゃないか、って気もします。
 そんなわけで切り口と段取りが上手いバランスで配分できるのは短編で、それゆえに怪談には短編が一番向いている、という結論が出そうなんだけど、掌編、長篇が怪談に不向きかというと悩む。掌編に関しては切り口で勝負するしかないんだけど、怪談の肝というのは切り口とか語り口にあると思うので、掌編こそがもっとも怪談のソリッドな部分にこだわれるスタイルだという考え方はあると思う。
 問題は長篇なんですが、そもそも成功してる長篇怪談っていうのがどの程度あるのかがいまいちピンとこなかったりはします。自分が読んだものだとシャーリー・ジャクスンの山荘綺談くらいしか思い当たらないし、長篇だとホラーとどう違うの?という部分も悩みどころになるような気がするので、やはり向いてないような気もするんだけど、何かしらやり方はあると思う。他の小説ジャンルとの融和とかそういった方法で。例えば中篇だけど怪異譚とも妄想話とも読めるヘンリー・ジェイムズのねじの回転とか、ホラーとミステリの融合を目指した一連の三津田信三作品なんかは、その辺のヒントになりうるような気がしますが、まとまらないままひとまず終了。