階段

夕方には終るはずだった兄夫婦のマンションへの引越しの手伝いは結局夜までかかった。荷物をどうにか片付け、お礼代わりの出前の寿司を喰いつつさんざん飲んだ後、部屋を出てエレベーターに乗ろうとしたら、扉に『故障中』の札がかかっていたので仕方なく非常口を開け階段で一階まで下りることにした。薄暗い階段を下りていくと踊り場に小学校低学年くらいの女の子がしゃがんでいた。携帯ゲーム機で遊んでいる。今はもう夜中だ。午後十時を回っている。普通、そんな時間に子供はこんなところにいない。両親に問題がある家庭の子なのか、それとも――。いずれにせよ、この子に関わる気はなかった。黙って子供の脇を通り過ぎる。
「どうして、見えているのに見えてないふりをするの?」
背後から女の子の声がした。思わず立ち止まってしまったが、振り向きはしない。いや、怖くて振り向けないのだ。
「もう見えてないふりしないで。ずっとずっとわたしのことに気づいてたくせに。ずっと前からわたしがはっきり見えてたくせに。」
こんな子に会った覚えはない。思い切って振り向いたが、そこには誰もいなかった。どこであの子を見たというのか。何かの間違いだ。思い当たる節はない。こういうことは気にせず忘れてしまうのが一番だろう。早足で階段を下りる。けれど一階にたどりつかない。階段と踊り場が続いて途中の階にも出られない。あの少女の姿も見当たらない。
地上に下りるのをあきらめ兄夫婦の部屋まで戻ろうと階段を上り続けるが、延々と階段が続き、どこへも辿り着けない。歩き疲れて階段に腰掛ける。あの少女のことは思い出せない。誰かと間違えているんじゃないか、と叫んだが少女は現れなかった。耳を澄ませても、誰の足音も聞こえてこない。